長野県の南部(南信)と静岡県の北部(北遠)、愛知県の東部(奥三河)を総称して「三遠南信(さんえんなんしん)地域」と呼んでいます。この地域は、属する国(信濃、遠江、三河)が異なりながらも長く密接な繋がりを保ち続け、共通の文化を育んできました。そして、それをもたらしたものは「道」でした。南北に走る総延長220余kmのこの道は、江戸時代以降に火伏せ(ひぶせ)の神としての秋葉信仰が盛んになり、秋葉山(静岡県春野町・秋葉神社)への参詣が盛んになって以来、秋葉街道と呼ばれるようになりました。
 古くは武田信玄が東海地方へ侵攻した軍用道路として、また東海地方からの特産物の輸入路であったと同時に、農村歌舞伎や人形浄瑠璃等の民俗芸能も伝播されました。そしてこれら移入された文化が、赤石山脈の谷から流出することなく定着し、それぞれの地域で今日まで維持されています。
 街道沿いにたたずむ道祖神や数々の史跡、そしてそこに住む人々の暮らしの中に今も息づいているのです。少し時間に余裕をもって、街道をゆっくりドライブしてみれば、人と自然のやりとりの中で培われた繊細な日本の風景に出会えるでしょう。

交易の道
 秋葉街道は三州街道(国道153号)、遠州街道(国道151号)とともに「中馬(ちゅうま)街道」と呼ばれ、馬による輸送が江戸期より活発に行われました。これまでになかったその機動性から幕府公認の輸送機関となり、街道を様々な生活必需品が行き交うようになりました。信州からは柿・煙草・紙などが、三河・遠州からは塩・魚・茶・綿などが運ばれてきました。街道筋には、当時の賑わいを伝える宿場や、道標、道祖神、馬の供養を行った馬頭観音などが至る所に見られます。二本の足に頼った何日もかけての旅はのんびりしたものかもしれませんが、旅の厳しさや危険度は今とは比較にならないものだったでしょう。

戦いの道
 戦国時代に各地の群雄を中心に地方都市が発生。有力諸大名は領内の交通が不便では戦の際の用兵上支障があるため道を直し、宿駅を作りました、戦の道の整備が後の交易をさらに活発にする結果となりました。約450年前の天文二十二年(1553年)、伊那谷全域を統一した甲斐国の武田信玄は、遠州攻略の軍用路として利用し、織田信長や徳川家康と壮大な戦国のドラマを展開しました。戦国武将にかかわる史跡や伝説、命を落とした武士達の慰霊の祭りが、この地には数多く残っています。それらを訪ねながら、武将達のたどった道を歩いてみるのも面白いでしょう。

信仰の道
 深い山に囲まれて暮らしてきた人々は、山への畏敬の念を持ち、それは山々に対する信仰を生み、様々な神を祭ってきました。江戸時代、民間信仰が盛んになり、信州・遠州・三河の街道は大いに賑わいました。その代表的なものが、火伏せ(火防せ)の山で名高い秋葉山の秋葉神社です。ここからさらに関東・中部・近畿地方にまで秋葉神社は広く知れ渡り、信者の参詣は絶える事がありませんでした。このため秋葉街道は単なる通行のための道ではなく、その名の通り、信仰の道として秋葉信仰の深さを物語っています。

芸能の道
 この地域は、全国でも指折りの民俗芸能の宝庫。古典芸能のルーツを伝える田楽や、湯立神楽、人形芝居、念仏踊り、獅子舞、さらには雅やかな歌舞伎まで、あらゆる型の民俗芸能に出逢うことができます。なぜこれほどまでの芸能がこの山間地に残っているのでしょうか。かつてこの地は、東西南北の交通の要衝として多くの街道が通い合い、四方から運ばれてくる時々の文化が、山深いこの地域から外へ出て行かずに滞留したのかもしれません。さらにこの地域の人々が信心深く、文化を育んでいく暖かな心を持っていたことも要因の一つでしょう。自然の恵みに感謝し、芸を磨いて豊作を願う農民の心が、民俗芸能を今日まで伝えてきたのです。


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